これはクロミキイチゴです。
最近、種の話ばかりしています。
中村哲さんの本を読みました。
『希望の一滴』中村哲、アフガン最期の言葉(西日本新聞社)
「1984年、彼は初めてパキスタンのペシャワールのミッション病院に赴任。ハンセン病患者の診療に当たる。当初は医療機器と言えば押せば倒れるトロリー車が1台、ねじれたピンセット数本、耳にはめると怪我をする聴診器が1本。患者も自分で背負って搬送した。」
彼の言葉「医療に恵まれないパキスタンで一粒の麦になりたい。」
そして「あまりの不平等という不条理に対する復讐でもあった。」とありました。
彼の「一粒の麦になりたい」という言葉にふれて、rosieさんも思い出しました。
rosieさんのまだ若い頃の話。四国で保育園に勤めていた時のこと。
その春、卒園したばかりの自閉症の男の子が電車事故で亡くなりました。
たつくんという子で、当時の世の中は「自閉症」という障がいに正しい知識もなく、
彼も公立・私立とも、幼稚園も保育園も全て断られ、お母さんはすがるようにrosieさんのいた保育園を頼ってこられたのでした。街も違うのに。
当時の園長先生は、
「本当の保育は、認可を受けて補助をもらったらできなくなる。」
との考えのもとに、あえて無認可保育園を開いておりました。
何しろ、保育園でありながら、
❶「貧しくとも、幼少期は母親の手作りの食事で育つべき」
と、離乳食が終われば弁当持参でした。
それと、
❷「働くお母さん、どんなに忙しくても、夜寝る前には子どもに絵本を読んでやって下さい。」
と立派な子ども図書館を作りました。
この二つを母親に求めました。
その園長先生が、中村哲さんと同じことを言っていました。
「僕がたつくんを受けたのは、行政に腹が立ったからだ。」と。
たつくんは言葉も出ず、ウロウロと歩き回り、プールに入ればすっぽんぽんの裸になるわ、皆と同じことは出来ず、いつも保育士が彼を追っかけていました。
でもたつくんは楽しげで、お母さんはホッとされているようでした。牛を飼う農家で、いつも軽トラックで送迎をされていました。
その彼が卒園後、養護学校(特別支援学校)への入学を目前に、電車に轢かれて亡くなりました。わずか6歳の命でした。
私たち職員もお葬式に行きました。
彼の小さな棺を乗せた霊柩車が出た後、古いお家の縁側で、取り残されて泣き崩れていたお母さんの姿。私は今も、忘れることができません。
その地域の風習で、我が子が死んだ時は母親は火葬場までは行ってはいけないことになっていました。(母親が、身を引き裂かれる場面に遭遇しないように…との昔ながらの配慮でしょうか。)
その後に、保育園の関係者で彼の追悼文集を出しました。
その時に私は、『一粒の麦』というタイトルの文章を書きました。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(聖書 ヨハネによる福音書12:24)
彼の死を、そのまま置き去りにしたくはなかったのでした。
たった6年の人生を、あっけなく終えてしまった彼。
言葉を発することもなく、母親に深い悲しみを残して。
彼の人生は、いったい何だったのだろうと思いました。
でもきっと、「彼の死は何かを生み出すことになるのではないか」と思わずにはいられませんでした。
一粒の麦の種は死んでしまうけれど、そこから新たな命を生み出すと。
菜の花が春風に揺れる頃でした。
先日、私は「虹保育園」の就職面接にあたり、履歴書とともに職務経歴書を書きました。
その中に1行、このたつくんのことを書きました。
私はこの出会いから、アメリカ滞在時に自閉症療育のTEEACHという教育実践にふれました。
帰国後、TEEACHだけでは日本の自閉症児は育たないと実感し、ある先生の元で更に自閉症療育を学んだのでした。
と同時に、彼らに関わる仕事を始めました。
たつくんと同じ年代の自閉症の人たちが、彼と同じように、試行錯誤の時代で一貫した療育も受けられないまま成人し、入所施設に入っていました。
問題行動がひどくなり、家庭では生活できませんでした。中には、精神病院に入れられている人もいました。
行き場がなかったのでした。
でも彼らは、本当は暴れる怖い人でもなく、優しい人たちでした。
自分のことをわかってもらえず、どうにもできずに表現したら、「問題行動」と呼ばれるだけだったのです。
アメリカ滞在時、小学校の先生が日本から来た3年生の男の子のことを持て余していました。
「彼は突然叫び出す。」と。
でも、日本語のわかる私には聞こえました。
彼は叫んでいました。
「何が何だか、わからないんだよー!。」って。
彼は帰国すれば、きっと何も問題のない普通の小学生に戻ったことでしょう。
たつくんの一粒の麦の種は、私の中で育ち、何人もの自閉症者を精神病院から救い出しました。
保護者や行政の方が、
「本当に引き受けて大丈夫なんですか?」
と不安がる中を、
「大丈夫ですよ。」
と連れて帰り、施設の中でみんなで取り組みました。
彼らが安心して暮らせるようにと。
その取り組みは大変でしたが、彼らは本当に純粋な優しい人たちでした。
中村哲さんとは、救った人たちの数も取り組みも違うけれど、私の中の一粒の麦は育ったのでした。
たつくんのことをこうして書くと、今も涙が出ます。お母さんの泣き崩れる姿が、目の前に浮かんで。
たつくん、君の死は40年、私の中で生きてきたよ。一粒の麦くんとして。
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